1964・1・13
★浦田健志誕生

  午後8時2分 千葉県松戸市松戸・発地産婦人科にて、父・英雄、母・アサ子の間に生まれる。
  体重3650g 身長51cm 胸囲34cm 頭囲34cm。


 父・英雄は「一太郎」と名付けたかったらしいが、祖父・茂が「健志」と命名。
 (ちなみに、祖母の名は「ふで」である。2人とも民謡の先生だったが、音楽に目覚める前に他界したので何も教わらず。)

 近所でも評判のカワユイ子であった。


 ボブ・ディランの「時代は変る - The Times They Are A-Changin'」がリリースされた日でもある。
 わたくしのために、ありがとう!BOB DYLAN!

1977
★丸坊主の野球少年だったが、ビートルズに影響されると同時に”女にモテそうだ”という想いで、
  近所の伊勢丹にて2万7千円 のレスポール(ウェストミンスター製)を手に入れる。
  その時、思った。「これで特別な人間になれる。」と。

★吉田拓郎を聴き「これなら俺にも出来そうだ。」と思い、作詞、作曲をはじめる。
  最初に作ったのは吉田拓郎の「たくろうチャン」という歌に影響された「たけしくん」という歌。
  かなり自分好きである。
  ちなみに2曲目は「なんとなくの人生」という歌である。(たいした落差である。)

1978
★「桃源郷」というバンドを結成。(ベイシティ・ローラーズやチューリップなどをやっていた。)

  メンバー宅で5人くらいの友達を呼んで初ライブ。まもなく解散。

1980
★1月にポール・マッカートニーが来日。そして大麻所持で逮捕。

  ミーハー魂に火がつき、警視庁などに連日行き、「ポールを返せー!」とやっていた他の連中と意気投合して
  「Plastic Macs」というビートルズ関係のコピーバンドを結成。
  (いちばん年下だったせいかリードヴォーカルは2・3曲しかとらせてもらえなかった。)
  (しかも、サザンの曲とか・・・。)1回のライブをやっただけで満足したのか?解散。


1980・12・9
★ジョン・レノン撃たれる。「絶対プロのミュージシャンになる。」と心に決める。

1981〜
★某「J」という事務所の某アイドル「まっ?」のバックで踊ったのを皮切りにいくつかのバンド
  (「ぽるとぱろうる」「たけし with うらた Super Candy Box Sound 244」
  「Candy Box(1)」(ここで初めて“ベスト・ヴォーカル賞”をもらう。)「優柔不断桃色」など)を経て
  「芸能界」入りをもくろむが、誘いを受けたのは”アイドル”(オーディション受けたけど・・・。しかも全国放送。
  竹本孝之が優勝した「ミスターCBSソニー」。でもアイドルになりたかったわけではないのだ。)
  あるいは「バンドはいらないから浦田君だけほしい。」という話ばかり。
  “バンドでデビューしたい”という一心でバンド活動を続ける。


1982
★某作曲学校に入校。
  初日のテストで只一人だけ0点を取る。先生に呼ばれ、説教を受ける。
  次の授業は自作曲の発表会。また呼ばれる。しかし今度は”お褒め”のお言葉。
  そして浦田、悟る。「音楽は理論ではない。」と。そして辞める。
  そのおかげで現在も譜面が読めないが・・・。

1983
★某音楽学校のボーカル科に入校。

  しかしサークルみたいな生徒達のノリが嫌になり半年程でまた辞める。
  「もっとスゴい奴が集まってて、刺激的なものだと思ってたんだけどね。」
  要するに、トンがっていたわけである。(現在も変わらず。)


1986・6
★デビュー寸前だった「CANDY BOX(2)」。メンバー間の問題や外部の邪魔が入ったりして解散決定。
  ”解散記念”に出たコンテストにて、グランプリとベスト・ボーカリスト賞を獲得。
  (車と50万をもらった。車はすぐ売った。)(ナイショね。)数社のプロダクション、レコード会社の誘いを受ける。
  「うちに決めたらお祝いに10万円のソープに連れてってあげる」と言い出す
  某・有名レコードメーカーの社長(この人、有名)もいた。(行ってないぞ。)


1986・11


     ・12

★「もうバンドはやらない」と心に決め、キティ・アーティストとソロ契約。
  “超・大型新人”とのふれこみだった。(元々は自分から言い出したことだが。)

★Egg−manにて「CANDY BOX」 LAST LIVE。
  アマチュアバンドの動員記録を作る。(きっと現在は抜かれている事だろう。)

1989・3
★両親が離婚。「まさしくロックンローラーの歩む道だ。」とうなづく。

1990・9・21
★何度もデビューをしかけたが、(自分でぶち壊したことも有り。)
  ようやく、バンダイ・サムライレーベルより、アルバム「Blue」(BCCA−7)(幻の名作。)
  シングル「Fallin’in the rain−暗くなるまで雨を聴いたー」で、デビュー。

1990・10〜
★FM NACK5「MIDNIGHT ROCK CITY」のパーソナリティーを務めるかたわら、
  全国主要都市にてライブ・ツアーを行う。

1991・2・21
★2nd シングル「裏切りのアクション」発売。(「男の哀愁」と帯に書かれていた・・・。)


1991・9

   ・11〜

★2度目の全国ツアーを終え、キティ・アーティストと契約解除。

★「ワイド・レシーバー」「サムライ・ミュージック」「バナナ・ムーン」らのプロダクションに籍を置くが、
  『さまざまな事情・問題』が多々あり、(オレのせいじゃないよ。)現在に至る。

1993頃
★「ULTRA松橋」というバンドで活動。(メンバー、Gt松永靖、Sax橋本一芳)
  「義理人情」「頑固一徹」「情状酌量」という3本のカセットテープを発売。(これまた幻の名作!)

1995〜1996
★「ULTRA松橋」のメンバーを率いて「XXX」(トリプレクス)というバンドで活動。(ここにDsの小林秀樹がいた。)

★千葉の幕張で行われたイベント「BANDにまかせろ Vol.3」にて、グランプリと
  ベスト・ヴォーカリスト賞を受賞。
  (但し、決勝大会ではメンバー2人が来れず、「ULTRA松橋」のメンバー、曲でやった。)そりゃ、解散。

1997〜
★松永、橋本、小林を率いてソロ活動を再開。のちに、「浦田健志 withRd ”J”Band」となる。
  ちなみに「Rd”J”」とは、「XXX」時代のレパートリー、アマチュア・ミュージシャンの光と影を唄った
  「Oh yeah −Rockin’ Dynamite”J”の欲望」という歌 (名ロックナンバー)からとったものである。

2000・2・17
★かつて所属していたレコード会社の宣伝部にいた(それ以来”悪友”である)
 出山謙一(彼は元X JAPAN・TOSHIの兄である)と「ヒコウ少年」というユニット名で、
 センチュリーレコードより「くだらないジョークと果てしない夢」(CECC−10745)発売。

 千葉の館山市では(出山の出身である)サザンの「TSUNAMI」を抜き、モーニング娘を抑えて、
 3週連続1位の快挙。
 町中、ポスター貼りまくりであった。(TV東京・「アド街っク天国」に出る。)(ほんのちょっと。)

2000・12・19
★Rd“J”Bandメンバーを核に、7人編成の「ソードフィッシュトロンボーン2」
 (「1」は’96・12にやったが、メンバーは異なる)という、この日限りのバンドで30曲、
 延べ4時間弱に渡るライブイベントを行う。
 このライブをもって、Rd”J”Bandは解散。

2001・01・13

HP開設。