書を読し 我 思ふ

「文藝春秋」の二月号の中に「弔辞」という特集ページがある。
著名人60人の実際の死に際した弔辞が全文(全言葉)載っている。
興味がある人は読んでみたら?読み応えあるよ。

自分が死んだらみんなどう思ってくれるだろう?って考えたことある?
僕はよくあります。自分の葬式を想像して泣いたりしたりもします(アホか、おれ)。
「あいつはこう思ってくれるだろうな」とか「こいつは本気で悲しんでくれそうだ」
とか勝手に考えるワケです。
で、その人たちの「愛」に勝手に触れ、涙するのです。(アホ?)
一方、例えば友達の葬式で自分が弔辞を読んでるところを想像して
泣いてたりもします(やっぱ、アホか?)。友達何人も殺してます。スマン。


できれば、正当に認知されたいなぁ。できれば、心の中まで覗いてほしいなぁ。
(好いことを言われたいという意味ではない。)
死んだらある意味そこで完成しちゃうもんね。
誰かがその後、研究・発掘してくれたら別だけど。けど、意味無いね。そんなの。

だから、現在付き合ってる人との付き合い方が重要になってくるね。
やっぱ、その人たちには愛されたいな。
正当に評価・認知されるってことは“愛される”ってことなんだろうな。
そして“愛される”には「愛される」準備が必要だろうな。
その「準備」とは、その人を“愛する”ってことだろうな。
その人を愛してないと、その人の想いをを正当に把握できないだろうな。
だから、“愛されてる”ってことにも気がつかないだろうな。
という、堂々巡りのような理論になってくるわけです。

「愛され慣れてないな」って感じる人、たまにいるもんね。
そういう人って、たいてい外側を装ってるような気がする。
好かれたいが為に、あるいは、その逆。または、興味がないのか。
嫌われたって内側を見せていかないと(言葉で言わなくてもいいんだよ)、ちゃんと愛されないと思う。

僕はよく友達に言います。
「例えば、音楽やゲームやスポーツの話が合うからとか、
楽しいからとかじゃなく、なんの趣味も合わなかったとしても“信用される人”で在りたい」と。
その部分で“愛されたい”。と。

そして僕は友達に“愛されてるなぁ”って実感することもよくあります。
うれしいのと同時に“当然”と思うこともあります。(傲慢でしょ?)
それは「だって、おれ、愛してんもん」と思うのです。
すべてが、そのケースに当てはまる訳じゃないけど(ガッカリすることもよくある)
愛する人に対して真摯でありたいとは思ってます。
だって、死んだとき正当な評価・認知で弔辞とか読まれたいもん。
「おいっ!それは違うだろっ」ってフラフラ漂いたくないもんね。
また、友達が死んだときには、そうしてやりたいもんね。
「お前と友達で良かったよ」って思われたいもんね。

「自分の死亡記事を書く」って本が出ているが、「自分の弔辞を読む」ってのは
企画としてどうだろう?