年齢(とし)を重ねるということ。 加えて「男前」 −2−

加えて「男前」

その日はオレの“誕生会”。友達と2人で行きつけのバーで飲んでいた。
残念ながら・・・男だ。
オレ達は“『 型”のカウンター席で飲んでいた。
背面では男女の2人。
カップルではなく、たまたま居あわせた顔見知りの常連客同士。
得てして酒場では声も大きくなる。時々、話し声が耳に入ってくる。
そしてオレの聴覚をさらに刺激する話題に突入した。

「“男前”って語源はなんなんだろう?」
「“女前”とは言わないもんねぇ〜?」
「“女々しい”が男にしか使わないようにねぇ」
「洋服のボタンには“男前”“女前”があるけどねぇ・・・云々」
「着物にもあったっけ?・・・云々」

オレは“男”とか“女”とかの言葉に敏感に反応する。
特に“男”には。
だからこそか、その会話にもどかしさを感じてた。

「なぜ衣服の方向に話しが盛りあがるっ!?」
「もっと掘り下げて核心に触れていかんかいっ!」

得てして酒場という場所は、お互いの話しにうなづくように会話を進めていれば
スムースに安定した時間が流れていく空間でもある。
そうやってやり過ごせば好感度が下がることも滅多にない。
核心をついた新しい意見など必要のない場合もある。
人と人とがそういう風にすれ違っていく場所でもある。

しかしオレはもどかしさの余り口に出していた。

「あのぉ〜、そのことについては一言あるんですけどぉ〜」
連れは「あーあ、入っていっちゃったよ」って苦笑気味だったろう。

オレはこう語り始めた。

「女」は生まれながらにして「女」だけど、「男」には階級がある。
「男」は「男の子」として幼・少年期を過ごし、がんばって「男」になっていく。
努力しないと、がんばらないと「男」になれないのだ。
「女」はがんばらなくてもいい。と言っているのではない。
「女」は「女」を磨くために努力する。

で、「男前」とは「男」になる手前の階級である。と。
簡単な図式としては、「男の子」→「男前」→「男」
「男前」は「男」になるための通過儀礼なのだ。

実はとっさに思いついただけなんだけど、我ながら感心する解釈だと思ったのだが・・・。


それでも年齢を経ていくと共に、「男前」を経た称号としての「男」ではなく、
呼称としての「男」と呼ばれる日がくる。
50歳で「男の子」はないでしょ?そういうこと。
で、そこで差ができるわけだ。
どんな「男」であるのか?
「女」も同じである。

これからオレは誰かに「男前だねぇ〜」と言われたら、笑ってこう言うことにしよう。
「男前と言われてるようじゃ、まだまだだな」と。
「まだまだ青二才だな」と。
きっとそれがオレの血となり、骨となり、肉となるだろう。

もう少し、いやもっともっと「青二才」を楽しむとしよう。
人生を全うしたときに「男」と呼ばれたら満足だ。
知らないことを知らないこととして、知りたいことを知りたいと求めていこう。
「俺は俺」なんて、したり顔をして言わない。決めない。
中途半端な奴が自意識という仮面を被って
「オレはオレ」「あたしはあたし」なんてナルシシズムに言ってるのは傍から見ていてみっともない。
「己の“俺”ってどれ?」(韻をふんでみた)みたいな。

若いうちはまだいい。
自分の“青っぽさ”に無自覚でいられるし、それが許される事も多いから。
それでも「俺は俺」=「他人の苦言は排除」みたいな方向性もあるから、それはトホホなのだが。

うん。書いてるうちになんとなくわかってきた。
もしかしたら“自覚した青二才”は、自分の責任においていろんなことが経験できるポジションなのかもしれない。
それは「男の階段のぉーぼるぅ〜(ミミミミ ミ〜ミ〜 レ〜ソソ〜)」
ということなのかもしれない。