雨にぬれても

傘を持つのがあまり好きではない。
それは別にポリシーではないから、どしゃ降りの時は当然差す。
ただ手ぶらの方が自由度が高いから、というシンプルな理由。
雨が降りそうでも、現時点で降っていなければ傘の用意はしないし、
ちょっとぐらいの雨や、ちょっとぐらいの距離だったらおかまい無しなだけ。小走りになることはあるけど。

だから、不意打ちも含めて雨にモロ打たれる機会も多い。
そんな時に意識して心がけてることがある。
それは“しかめっ面”をしないこと。

“雨あがりの虹を知ってる”(aiko「桜の時」)から笑顔を作るのではない。
“あの頃の幸せがよみがえる”(ジーン・ケリー「雨に唄えば」)から唄い踊るわけでもない。

“しかめっ面”したって濡れるのは同じ。
掛かる雨量だって変わるわけでもない。
だったら「へっちゃらさ」って顔で歩こうじゃないか、と。
その方が“粋”じゃないか、と。(ま、意図して“粋”を意識してるわけでもないんだけどね。)
“気持ちいい”と思えるようにもなる。“自由”も感じられたりする。

“しかめっ面”とか“イヤ面”は身についてしまうしね。
(特に女性のあからさまな“イヤ面”を見ると、見苦しいし悲しくなる。「きっと付き合ってる男も悪い!」とまで思う。)


歌が2つ出たけど、歌に例えてみると、「明日に向かって撃て」の挿入歌、B・Jトーマス「雨にぬれても」がしっくりくるかな。

“文句を言ったところで俺は雨を止めることはできない
なぜって俺は自由 何も心配ごとなんてない”




物事の対処もそういう風に渡りたいと思ってる。特に他人が介在する場合。
その方が適切に対処できることを知ってる。
感情に流されることは少ないから。
感情に流されると世界が狭くなって、自分の範疇でしか物事を考えられなくなってしまうからね。


「感情に素直に反応した方が自然でいいじゃん」と言う人もいるだろう。
その言葉は“無感情”と擦り合わせて言うんだろうけど、感情なんてその手前に当たり前にある。
オレだって、それはとっても凶暴なこともあるし、デコボコだし、物事との折り合いがつかずに不完全に横たわってる。

例えば、殺人犯とオレの違い。
それは、感情や理性をコントロールできるか否かの差でしかない。
そっち側に行く可能性なんて大いにある。


感情を殺すわけではなく、ひとまず横に置いとく。
で、「“核”は?」と自分に問いかけるんだ。「入り口は?出口は?」と。
感情をコントロールすること、それは自分を殺すことでも、裏切ることでもない。
使い様。

それができないとさ、人に迷惑かかるし。
自分の範疇でしか物事を考えられなくなるのはアタマ悪いし。
アタマ悪くてもいいんだけど、そういう種類のアタマの悪さは、ただの“ひとりよがり”にしか映らないで何も響かないから。


感情のままに怒っても、泣いても、わめいてもいいのよ。サイボーグじゃないんだから。
でも、それがどこに向かうのかってことを考えられるフラットでクレバーな頭を携えてた方が、結果“正しく”いられると思う。
“正しく”ってのは、道徳的な意味じゃなく、いつでも誰にだって顔向けできる自分であることね。
それは自由でいられるってことでもある。

オレは、そう心がけてます。
そりゃ、できないことだってある。
だから心がけてる。


ま、雨の話しは完璧にただの前置きになってしまったな。
ほんとはもっとロマンティックな話しにしてもよかったんだけど・・・。


雨に打たれてても自分の歩幅をキープして平然と歩いてる女子を見かけたら、絶対に惚れるな。

これでまとまった、か?