お題「五月病」

正直に言うが、実は今オレは五月病に冒されている。

ここ最近のオレはコラムニストと化していて、“じゃん・ま”の週一の更新に追われている。
一週間ずっとそのことが頭を離れないこともある。
そして例えば、『オレが「五月病」について書くことに何か意味があるんだろうか?』
なんて考えるとすべてを投げ出したくなる。
〆切が近づくと「果たして、書き上げることが出来るんだろうか?」と不安に襲われる。

逃げたくなる。毀したくなる。この感覚は歌を作る時にも起きる症状だ。

でも書く。

意味がある、ないに拘わらず、“自分の席がある”という自分に対しての使命感が書かせる。
「もしかしたら楽しみにしてくれてる人がいるかもしれない」という快感を伴う責任感が書かせる。

これはよく人に言ってることだが、オレは“感性”を信じないタイプです。
(これ、あんまりわかってもらえないんだよね〜。でも、坂本龍一も村上龍もそうらしい。
なんかこの2人の名前を連ねると連ねないとじゃ言葉の重みが違くない?)
“感性”だけに頼る危険性もわかってるつもりです。
“感性”は天候にだって左右されるものだからね。頼りないのよ。

きっと“感性”を信じていればスラスラ出来るんだと思う。
バァ〜っと書いて、「よっしゃ、これでOK!」なんて感じでなんの迷いもなくいけるかもしれない。
「オレって、最高!」ぐらい言うかもしれない。

でもオレは信じてないことが前提だから“考える”。何通りも考えた中でセレクトする。
それが正しいセレクトなのかどうかわからないけれど、そうじゃないと安心できない。

それで決めたものは信じる。最後はきっとその“感性”ってやつが決めるんだろうけど、
やっぱり蓄積されて養われたものでありたいな、と。きっとそのへんは臆病なのかもしれないね。

話しはすこし私的に逸れたが戻そう。

そういうことも含めて五月病だ。
人間は元々なまけもので移ろいやすいものであると思う。
だけど(だからこそか?)環境に適応することを強いられる。
五月病と聞くと、人によっては“怠惰”だと思う人もいるでしょう。
でも実は“五月病”は責任感と表裏一体なんじゃないかな、とオレは思う。

責任感があるからこそ“五月病”に冒されるんだと思う。
五月病に冒されない人こそ自分に対して怠惰なんじゃないかと。

もちろん、いつも何事に対しても意欲的で何も問題のない人はいるかもしれない。
環境に適応するがあまり、与えられた環境という安心に対して何にも疑問を抱かず、
流されながら生きてゆき、自分のヴィジョンを見つけられずに時をやり過ごしているだけの人も多いんじゃないか?
疑問を持たなければ楽にいけるしね。

逆に何かしらの疑問や危機感を抱くという感覚は、
それに対して正面から向き合ってるということなんじゃないかな。
自分を確認してるんだ。それを責任感という。
責任感から来るある種のプレッシャーが五月病を誘うことは自然なことなんだと思う。
自分に対して課すプレッシャーは自分を成長させるひとつの媒体だとも思う。

“五月病”おおいにケッコウ!

何も考えずに約束ができて、それをいとも簡単に平気で破れる人。
こういう人はきっと五月病なんて無縁だろう。
さっき「松嵜しんたろう」と電話で話した時こう言ってた。
「五月病なんてかかったことないからわかんないっすよ〜。」
やっぱりねぇ〜。
あいつ、「電話します」とか言ってもなかなかかけないし、貸したものもなかなか返さないし、
長年付き合ってるけど、オレはあいつにその種のプレッシャーを見たことがないもん。
(半分ギャグとして聞いてね。一応、名誉のために。1/3でいいや。)でも愛してるぞ〜。(フォロー)

その点、オレなんか毎日“責任感”と戦ってるもんね(たまに負ける)。
「自分を降りたい」って思うこともよくあるもん。くわしくは言わないけど。

今日はこのへんで。なんせ“五月病”なもんで。


あ、全然関係ないけど “五月”って英語で “May”じゃない?
“May”ってさ、“青春”って意味もあるんだよ。
“The May of my life.” で “私の青春時代”。
いい季節だ。