お題「少年の心を持った大人」


「大人はずるい」「大人はキタナイ」「大人だって〜じゃねえか」「大人はわかってくれない」などなど…。
こんな風なセリフ吐いたことある?

身に覚えのない人でも聞いたことぐらいはきっとあるでしょう。
きっと「大人」の中には、それらの言葉がピッタリ当てはまる「大人」もいるでしょう。

“ガキ”相手にハナから向かい合う気がなく、正当に礼儀を尽くしたとしても
「俺のほうが長く生きてて、人生経験があるんだから、故に俺が正しい」みたいな類。

まあ、逆にてめえの力の無さを疑いもせず思い通りにならない事を何でもかんでも他者、
しいては、くくりとしての「大人」のせいにして「俺らは俺らだからよ〜」と
いかにも“ガキ”っぽく開き直る芸当に逃げる“ガキ”もいるから、
それはもうどっちもどっちで「はぁ…」とため息吐くしかないんだけどね。

まあ、そこらへんの話しは置いといて。

オレはといえば、もちろん「大人」に対して無力感を感じた事もあれば、
頭ごなしにモノを言われて悔しい思いをした事もある。
だけど、「個人」にはあるけど、くくりとしての「大人」のせいにしたり、絶望したり、
若さ故の反抗心の正しい示し方としてのゼスチャーも、それを気取ったことも(ほとんど)ないんだよね。

幸いにして、前出のセリフが似合う10代後半から20代にかけてオレは「社会」という枠の中で
「かっこいい」と思えるような「大人」に出会えた。
その中でも特にそう思えた人が3人いた。その3人に共通する点はいくつかあるが、
その中でも重要なファクターとして挙げるとしたら「少年の心を持った」と形容するに値する大人だった。
という点だ。
だからこそ信用もできた。そんな気がする。

その頃“ガキ”のオレが、オレなりの正義を振り翳して立ち向かおうとした時には、
その人達は本気で向き合ってくれた。
そんな「大人」に出会えたから、どこかで「大人もまんざら捨てたもんじゃねえな」と思えたんだろうね。

“少年の心”を持った…。
人によれば、“とっちゃんボーヤ” “ブリキの太鼓(映画)”を連想させるような、
なんだかくすぐったくなるような、恥ずかしくなるような形容だろう。夢ばっかり見ているような。
大人になりきれてないような。

でも誤解してはいけない。
「少年の心を持った大人」で在るということはハードルが高いものなのだ。

まず第一に、「少年の心を持った大人」は、あくまでも「大人」でなくてはならない。
なんとなくそんな感じがするんだけど・・・の「大人を感じさせない大人」や「心が大人じゃない大人」には、
間違ってもその形容をしてはいけない。きっと、勘違いして図に乗るだろう。
そういう「大人」にはちゃんと正確に「子供っぽい」と言ってあげよう。
「少年の心を持った大人」とは、まったく異なるものである。


リアリティーと説得力をもった行動と知恵
それらが備わってこそ与えられる称号なのだ。


そして、「少年の心を持った大人」は、なろうとしてなれるもんではない。
無邪気さ(無垢とは違う)が漂う「少年」らしい「少年期」を過ごしていない人はムズカしいだろう。
そしてそこに、大人になってからも胸を張って語れるエピソードがあれば尚いい。

「少年らしさ」とは「好奇心」がもたらす産物であろう。
「好奇心」が芽生える感情、そしてそこに向かう運動神経。
それらが「少年らしさ」を形成するのである。
その「少年」らしい「少年期」の過ごし方が心のシナプスに刻まれていて、
尚もそのくすぶりが少ない大人だけが「少年の心を持った大人」として存在できるのである。

でも、あきらめることはない。「大人」と言われる年齢になっても遅くはない。
(「少年の心を持った大人」そんなものになりたくない人にはカンケーないが)
青臭い」ことを「好奇心」という名のもとにたくさんしてみよう。
(シナプスに刻まれてない人はここがムズカしいんだけどね)
そして、「大人」としてのスタンスと「余裕」もしっかり持とう。
そして「少年の心」は擦り減っていくものだということも忘れてはいけない。
だから増やしていくしかないんだ。「好奇心」という名のもとに。

オレも「少年の心を持った大人」で在りたいな。それって素敵なことだと思うから。

“突っ走ることが似合う時代は終わった。
だけど今もガキになめられるほど落ちついちゃいられねえ”
これがオレのROCK魂だ。(えっ?違う?)


そういう意味でポール・マッカートニーは…
と、前回の続きを書こうと思ったが、このコーナーは毎回“テーマが決まってる”という事に今更ながら気付いたので、
これについては僕自身のH・Pに書くことにしました。

興味のない人には今回同様どーでもいい事ですが。