お題「運と実力」

運と実力

「運」というやつはきっとあるんだろう。だけど実態の見えないものだから困る。

オレ自身「運」を口にすることはほとんどない。

『男が「運」とか「ツキ」とか口にするもんじゃない』これはオレが自身に課すポリシーでもある
(浦田健志おとこ論・第32章)。

言いかえれば、『「運」とか「ツキ」のせいにするなよ、俺っ』ということだ。

幸運を口にするのは謙遜の意味を含めてOKだけど、自分を顧みず自分のせいにすることもなく
「運が悪い」「ツキがなかった」
と「運」のを持ち出して納得してしまうのはなんだか“みっともない”気がするのだ。

それを“ポジティヴ”と呼ぶ人もいるかもしれないが、
都合の悪さを自分以外の何かのせいにして生きていくそんな“ポジティヴ”ならいらない。

オレにとっては、“肉体”そして“魂”だけがすべてだ。
自分自身の責任の所在はハッキリ自分にしておきたいしね。

でも「運」のせいにできれば楽なんだろうな、きっと。

そして「運」と並べられるように語られるのが「実力」。そう、今回のお題のように。

「実力はあるけど運がない」あるいはその逆。

そして行きつくところは「運も実力の内」。

ごもっともです。でもこれをイコールとして語る人もいるけど、決してイコールではない。

歴史上のアーティストの中には、生前まったく世間には認知されず、
死後脚光を浴びた人が何人も存在する。

しかも、その後“巨匠” “カリスマ”の地位まで登りつめている人が。

この人達に「実力」が無かったと言えるはずがない。

例えばこの人が音楽家だとしたら、
(もちろん、時代的な背景もあるだろうけれど)
この人は音楽以外の“人付き合い”に「運」が無かったのかもしれない。
または“世渡り上手” “セールス上手”の「実力」が無かったのかもしれない。

そこを音楽の「実力」と同一視してはいけない。
「売れなくてもいいっ!」とは思ってなかっただろうけど、
「売れるためには何でもしま〜すっ!」というわけにはいかなかったんだろうなぁ。と察する。

松嵜くん。君には痛いほどわかるだろう。
今も昔も本分の「実力」以外に“世渡り”も身につけないと生きにくいんだよなぁ。ホント。

アーティスト、というか芸能界、自己主張の強い“世渡り下手”は下手するとつぶされるもんなぁ〜。
俺みたいに。(笑)
いや、笑い事じゃないさっ。あいたたたっっっ…。

「運も実力の内」というより「縁も実力の内」と言ったほうが正しいかもね
(ちょっと皮肉入ってます)。
ただ、「負け犬の遠吠え」と思われないようにしなきゃね。松嵜くんっ。

でも松嵜くん。
俺は決して君を「運も実力の内」なんて簡単な言葉でかたづけさせはしないからねっ。

夢はおおいに追ってくれ。自分のやりかたで。オレはそんな人が好きだ。

松嵜くん話はここらへんでやめとこう。暑苦しくなる…。


まあ、「運」とか「実力」とかはアーティストに限らず、
きっと夢や希望を抱いている人に多く用いられる言葉なんだと思うんだけど、
一番大切なことはそんな言葉に支配されることではない。



「ロバート・B・パーカー」という小説家の「初秋」という作品がある。

そのストーリーの大半は、
無気力でなんにも出来ないポールという少年が主人公のスペンサーを通して徐々に心豊かに、
そして自立していくというものだ。

そのラストにずっとオレが指針にしている場面がある。

「ぼくは、なにも自分のものにすることができなかった」
「できたよ」
「なにを?」
「人生だ」

そう、自分の人生をものにする。それほど尊いものはない。

きっと
チャーミングな人間になれる。

「実力」も欲しい。

「運」も欲しい。

そのほうがいいに決まってる。

でもそれは自分の人生をものにしていく作業過程の隣に横たわっている。

たった一度の人生だ。笑ったり、泣いたり、わめいたりして欲張ろう。

世間ってやつを上手く渡れなくても拗ねるなよ。
夢や希望は自分だけのオリジナルなものだ。

愛情ある助言だけを甘えじゃなく受けとめるアンテナを持って、
誰にも文句を言わせないような自分だけの生き方を示してやれ。

もう一度言う。
不器用でも自分の生き方をまっすぐ見つめてる人、オレはそんな人が好きだ。

味方はいるよ。
たとえばオレがいる。忘れないでほしい。


んっ?!なんかこれ、自分に言ってないか?